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025 複眼思考のフレームワークとしての「真善美」

●生田長江「一の信条」

マネジャーは、つねに複眼的な思考を求められます。しかも往々にして、納得のいくまで選択肢を吟味する時間が与えられません。

そんなときに頼りになるのは、バランスの良い視点を備えたフレームワークです。マネジャーの皆さんの多くは、たとえば事業分析の3C(市場−競合−自社)といったフレームワークを、仕事の内容に応じて使い分けておられるでしょう。

先日、明治生まれの文芸評論家である生田長江を紹介した新聞記事を読んでいて、彼が遺した「一の信条」という言葉を知りました。

「私は信じている――第一に科学的なるもの真と、第二に道徳的なるもの善と、第三に芸術的なるもの美と、この三者はつねに宗教的なるもの聖に統合せられて、三位一体をなすべきことを」

いわゆる「真善美」です。真善美それ自身は使い古された言葉ですが、それぞれ科学・道徳・芸術という言葉に置き換えられていたせいか、一読してハッと感じるものがありました。

真善美はもともと理想の状態を表す言葉ですから、適切に拡張すれば、複眼的な思考の汎用的なフレームワークになるはずです。そこで、マネジャーの意志決定において「真善美」の視点をどう生かしていけるかを考えてみましょう。

●「真善美」という複眼思考

「真」は科学の眼です。理にかなっているか、客観的にみて妥当な選択と言えるかということです。マネジャーが現場でくだす個々の選択にすべて客観的な裏づけを求めることは、現実的ではありません。しかしその選択を後から振り返ったり、組織で合意を形成するためには、できる限り「真」の眼で見ておかなければなりません。

「美」は美学の眼です。これは少々翻訳が必要です。美学・美的感覚はきわめて個人的なものですから、客観性の象徴である「真」とは反対の性質を象徴させられます。主観的にその選択を見て「やってみたい」「なんとしてもやり遂げたい」と思えるかどうかだと解釈できます。

「善」は社会の眼です。「真」と「美」、すなわち客観と主観、論理と直感とのあいだの矛盾を乗り越える鍵となるのがこの第三の視点です。「真善美」がこの順番で呼び習わされている理由は調べが及びませんでしたが、「真」と「美」をつなぐかたちで「善」が置かれているのは示唆的です。

組織にとって「真」であっても、個人にとって「美」であっても、それがつねに「善」とはいえません。一橋大学名誉教授の野中郁次郎氏は、米ゼネラル・モーターズの衰退の要因について、「企業としての社会的存在意義(共通善)の視点を喪失した近視眼的経営」を挙げています(1)

その選択が真でなければ、目標の達成がおぼつかない。美でなければ、それをやり遂げるエネルギーが続かない。善でなければ、社会で認められない。この三つの眼をまとめておきます。

「複眼的に考えて選択するための『真善美』」

  • 【美】−直感。主観的にやりたいと思えるか。個人的な美的感覚にかなうか。
  • 【真】−論理。客観的に妥当であるか。採算が合うか。
  • 【善】−道徳。共通善に寄与するか。社会の役に立つか。

これらを、個々の選択に適用すべき基準としてしまうと、選択がとても難しいものになってしまいます。結果的に選択すべきタイミングを逃してまうのは、真でも美でもないでしょう。これらは「視点」であり、限られた時間で個々の選択の質を少しでも高めていくためのガイドラインとして意識するという位置づけが現実的なように思います。


(1) 野中 郁次郎 「分水嶺は実践知の貫徹」(日本経済新聞新聞 5月20日(水)朝刊)